由煕
日本語で書かれているが、話し手は母語が韓国語である韓国人のオンニ。
日本に対して、当時の韓国人の平均的な考えを持っていると言える韓国人オンニを通して、在日同胞に対する視線を描いた作品。
日本には北朝鮮の総連があるから思想的にも危ないかもしれない。
띄어쓰기や表現、発音などが上達しないことに対するいら立ち。
本国の学生には考えられないくらい簡単な試験を受けて大学に入ることのできる在外同胞に対するやっかみ。
当時の韓国人が在日同胞を見るときには当たり前かつ普遍的なものだったのではないか。
由煕は、父親が韓国や韓国人を悪く言うことが嫌で、祖国を知ろうと努力したし、自ら母国留学という選択をした。
韓国人でありながら、韓国人になりたいと努力した。
韓国を知り、生活に慣れるために下宿を転々としていた。
そんな由煕を苦しめたのは、韓国語と、‘우리という共同体’なのだと思う。
由煕が思い描いていた理想の祖国との乖離。
在日同胞は日本人に近い、ほとんど日本人のようなものだという韓国人からの視線。
それに加え、当時の時代背景は、由煕を圧迫するしかなかったのではないか。
80年代の韓国は、民主化運動まっただ中。政治的にも経済的にも不安定な国だった。
当時の日本は高度経済成長を通して一足先に政治・経済面での安定がなされていた。
どうしても、韓国より進んでいた日本から来たという意識が、無意識の中で優越感や韓国に対する蔑視を生み、そのことにもまた苦悩していたのではないかと思う。
オンニが由煕に、日本人以上に韓国を蔑んでいる、小さなことも見逃せなくてけちだと言うが、過去の植民地宗主国で、そこの言語を第一言語とし、そこの国民と同じように生きてきた自分が、祖国に対してそのような感情を抱くことにもまた苦しんだのではないか。
同時に、韓国・日本ともに在日朝鮮人に対する理解が現在以上にされておらず、由煕は自分のアイデンティティが揺らぐしかなかったのだと思う。
その中で、どちらにも属していない・属することのできない自分自身を表現するには由煕は日本語という手段しか持ち合わせておらず、その様子が韓国人のオンニをもどかしくする原因になったということである。
韓国語が嫌いだという由煕は音としての韓国語に苦しめられるが、同時に大琴の音は우리말と表現する。
同じ「音」でも、言語ではない「韓国の音」。
由煕が聞いたままに受け入れ、韓国人と同じように感じることができるもの。
韓国人と同じ感覚を共有できるもの。
抽象的な우리という共同体に対する拒否感は、自分がそこに所属できないからこそ出てきたものであり、大琴の音は、この共同体に属している人と同じように受け止めることができ、自分が疎外されないものだと認識したのではないか。
最後に由煕は大学を中退して日本に戻ってしまう。
これは、韓国に適応できずに逃げてしまった、諦めてしまったと見るのではなく、「第3の道」、つまり日本で朝鮮人(または韓国人)として生きていく道を選んだのではないか。日本では韓国を悪く言う父親に対して意地になって韓国を守ろうとし、韓国ではここが自分の居場所ではないことを感じた由煕が、どちらかに所属すること、「日本人」「韓国人」になることではなく、「在日同胞」として生きていくことを心に決めて日本に行くことを決めたのではないか。
当事者ではない私が、このようなことを思ってもいいのだろうかと悩んだが、残しておきたい気持ちを抱いた。
それは、留学生としてここにいる私と重なる部分があるということだ。
우리という共同体。私は、国や民族に対して、この言葉を意図的に避けている。
우리は「私たち」ではない。「私が所属している団体」であり、一度その範疇に入ると、他人ではなくなるような気がする。
「私たち」に含まれる相手も、所詮は他人。なぜなら、「私」が複数集まっただけだから。
個人の集合体が「私たち」なのであり、「우리」は個人の集合体ではない。
そこに所属しない、またはできない存在でありながら、その中で生きることを強いられること。言語という確実な壁がありながら、それをないものとしてみなされること。
「あ」と「아」を毎朝選択しなければならないこと。
入ることのできない「우리」に参加する時、私は疎外感を感じる。
ただ、私は우리 나라と呼べる国はある。
由煕には우리 나라が存在するのだろうか。
우리말と呼べるものがあるのだろうか。
私には、分からない。